2006年
8/28「草の根から」
2002年の冬、私は役人を辞めた。既得権益と結びついた永田町や霞ヶ関にいては日本を変えられないと考えたからだ。いよいよ声なき多数の人たちの出番だと思った。市民の不安や怒りは満ちている。
かつて私は、近所の人を自宅に招いて「役所を変えよう。まちを変えよう」と話したことがあった。しかし、反応は「村尾さん、ドン・キホーテのようなことを言わないで。世の中なんて変わらない。子供が通う小学校に温水シャワーをつけてとお願いしても、いつも無視される。温水シャワーひとつつかないのに、役所や社会が変わるわけない」。会合はしらけて解散。
「世の中どうせ変わらない」とみんながあきらめている。これこそが本当の日本の危機だ。私たちの敵は既得権益の側に立つ者ではない。多くの人々の無力感や無関心こそ、私たちが戦わなければならない相手なのだ──こんな思いで市民団体をつくったり、市民とともに選挙を戦ったりした。
この国を変えるには、今度こそ草の根からの変革しかないと思う。既得権益を破壊するには、選挙での有権者による投票と、市場での消費者による選択しかなく、市民や消費者の信頼を得た者だけが、これからの日本をリードする・・。
書きたいことはまだまだあるが、このコラムも今回が最終回。読者の皆さん、一年間ありがとうございました。
8/21「現代アート」
今年の夏は瀬戸内海に浮かぶ直島に行き、現代アートと瀬戸内の自然に触れてきた。
原爆のきのこ雲とともに日本語と英語表記の憲法第九条が、リトルボーイ(広島に落とされた原子爆弾のニックネーム)と書かれた箱から立ち昇る。柳幸典氏の作品だ。戦争の恐ろしさと憲法第九条の崇高さを風化させてはならない。
「オープン・スカイ」はジェームズ・タレルの作品。見上げると、天井が四角く切り取られ、その四角いフレームを通して空が見える。この空以外は何もない、がらんどうのコンクリート部屋。壁際に座って、ただ空を眺めていると、大気や光の動きによって四角い空がその中でゆらゆら揺れる。科学を意識するときもあれば、自然を実感し、さらには精神性を感じるこの空間にはシンプルなもののみが持つ多様性がある。現代アートに異端はない。さまざまな見方や考えを認める。
夜が更けて、浜辺を歩く。月がこんなに明るく海を照らすとは思わなかった。波や風は穏やかで、その音はどんなに聞いてもノイズにならない。
直島に魅力的な公共空間を創った福武總一郎氏は「経済は文化の僕」と言う。その通りだと思う。経済は目的ではなく、自分が豊かに生きるための手段であるはずだ。何かを所有することよりも、何かであることが大切なのだ。今、日本も私たちも大きな曲がり角に来ている。
8/7「柔らかい公」
いつどこで誰が犯罪で傷つき、災害で悲しむか分からない。防犯や防災を考えるとき、そこに暮らす人々のコミュニティーにまとまりがあれば、被害者の数はかなり減るのではないか。
社会福祉協議会や消防団などを活用して地域コミュニティーの再生を図ることが必要だ。社会福祉協議会は民間の福祉団体で、行政からの補助金、会員からの会費、市民からの寄付などを財源として福祉サービスを提供している。行政と市民をつなぐ社会福祉協議会が民生委員などと連携して、一人暮らしのお年寄りや福祉サービスを必要とする方々の悩みや相談に応ずることで、住民の不安や孤立感を和らげることができる。
消防においては、火の用心から実際の消火活動にいたるまで、住民の日常の暮らしを把握し、日ごろから住民同士の協力や連携を保つことが大切だ。住民で支える消防団の活動そのものが地域のコミュニティーづくりに深くかかわっている。
こうした組織活動にもう一度目を向けて、住民たちで活性化の方策を探ることが地域コミュニティーを再生する一番の近道に思える。
今までの画一的な行政を「硬い公」とすれば、これからは、社会福祉協議会や消防団などのような住民密着型で住民の自主的な運営による公共組織、いわば「柔らかい公」の存在が重要になると思う。
7/31「サンチャゴ計画」
ヘミングウェーの『老人と海』の老魚師サンチャゴは、長い格闘の末に仕留めたカジキマグロをサメに食われてしまう。疲れ果て失意のサンチャゴは、それでもライオンの夢を見る。老いてもくじけない。
高齢社会を迎えるなかで、高齢者の多くは健康な限り働いて、社会の役に立ちたいと考えていると思う。サンチャゴのように夢を見続ける高齢者のために、社会もその受け皿を早くつくらなければいけない。公共建築物など公共空間のバリアフリー化(サンチャゴ・タウン)。家具、事務機器などのユニバーサルデザイン化(サンチャゴ・デザイン)。高齢者のNPO、ベンチャー養成塾(サンチャゴ・スクール)。高齢者による起業のための資金支援制度(サンチャゴ・クレジット)。社会貢献をした高齢者の表彰制度(サンチャゴ・アウォード)。高齢者のための職の斡旋など高齢者団体の設立(サンチャゴ・ユニオン)。
高齢社会においては、若者は扶養者、高齢者は被扶養者、という図式は多分通用しない。全員参加でこの国を支えないと、日本の社会は維持できなくなる。高齢者のための政策パッケージ「サンチャゴ計画」は、高齢者の生きがい探しを支援するとともに、高齢者に引き続き納税者として活躍してもらうためのプランでもある。サンチャゴ計画、私たちがいつまでもライオンの夢を見ていられるように。
7/24「求む調整役」
「川の自然を守ろうと運動してきたが、あのグループと一緒ではできない」。「あの人たちは役所から補助金をもらって動いている。彼らに私たちの活動についてとやかく言われたくない」。市民活動やボランティア活動にかかわっていると、時々こんな言葉を聞く。
個人の思いと思いが結びついて、ひとつの大きな力になれば社会は動くのに、思いと思いが衝突してしまい、その力は個人のレベルにとどまってしまうケースが多い。市民活動が今ひとつ大きなうねりにならないのは、個で動く市民をひとつの力にまとめる調整役がいないからだ。
異なるグループの意見に耳を傾けながら、なんとなくひとつにまとめてしまう人がいる。このコーディネーターの存在こそが、ボランティア活動活性化の決め手だ。地方自治体はこうしたコーディネーターの養成塾をつくるべきだ。講義内容は「組織をどう運営するか」「資金をどのように調達するか」「他のグループとの交渉をどう行うか」など。人間の集団を組織して、ひとつの方向に力を向けるマネジメント論を中心とする。
また、役所自身が市民活動の調整役を担ってもいい。そのためには公務員が市民活動をよく理解しなければいけない。公務員が市民活動に参加できる機会を広げていけば、市民対役所の対立の構図もやがては崩れ、新たな協力の枠組みが生まれてくるかもしれない。
7/17「ドイツに学ぶ」
イタリアの皆さん、優勝おめでとう。ジダンの頭突きを残念に思いつつ、サッカーのワールドカップ・ドイツ大会は終わった。
開催国のドイツについては、別の視点から今後も注目したいと思う。一つ目は、ナチス・ドイツの清算を続けるドイツの歩み。周辺の国々との関係においても、ドイツはこれまで同様、さまざまな外交努力を重ねていくだろう。今のドイツは、かつての敵国フランスとともにEUを支え、通貨も共通のユーロである。
二つ目は、ドイツの税制改革。ドイツの失業率は10%を超え、雇用情勢はかなり深刻だ。にもかかわらずドイツは財政再建のため、付加価値税を3%アップし、19%にする決断をした。次世代の負担を考えると、これ以上財政赤字を放置できないと考えたのだろう。ドイツのような決断を日本ができるかどうか。
三つ目は、ドイツの新エネルギー戦略。ドイツは化石燃料でも原子力でもない第三のエネルギー、つまり風力や太陽光など自然エネルギーの導入に力を入れている。電力事業者に買い取りを義務づけるなどして、風力発電量は世界のおよそ3分の1をドイツが占め、首位に立つ。地球温暖化の問題や新しいエネルギー産業の育成などの観点から、日本も自然エネルギーの導入に向けて真剣に取り組むべきだ。ドイツに学ぶことは多い。
7/3「タイタニック」
「人々に要求される生き方の変革があまりにも極端なので、彼らは今払わなければならない犠牲よりは将来の破局を選ぶ」。社会心理学者エーリッヒ・フロムの言葉だ。政府と与党の財政再建論議を見ていると、この言葉を思い出す。国の借金である国債残高は膨らむばかり。来年3月末で540兆円になる。国の一般会計税収の約12年分だ。日本の台所事情は非常に厳しい。沈没寸前のタイタニック号だ。
政府は、2010年代初めに借金残高の増加に歯止めをかけると言っているが、こんなスローペースではだめだ。景気が良くなると期待して、企業が銀行からお金を借りようとしても、国が国債を発行してお金を吸い上げてしまうと、金利が高くなり、企業はお金を借りるのが困難になる。結局景気は回復しない。なるべく早く国の借金を減らさなくてはいけない。
そうなると国の予算の支出を大幅に削るだけでは足りず、増税は避けて通れない。今のうちからその議論をしないと、困るのは私たちだ。税金を上げる道筋を早めに示してくれれば、市民や企業はいろいろな手だてを考えることができる。選挙前は増税を言わず、選挙が終わってから不意打ちを食らわされたら、私たちはたまらない。来年の選挙を考える政治家はいらない。私たちが求めるのは20年後の日本を考える政治家だ。
6/26「親の背中」
「子供は親の背中を見て育つ」。さて、教育基本法を改正するかしないかで、先の国会でもいろいろな議論があった。「愛国心」についても、これを法律に書き込めとの意見が出た。しかし、「愛国心」を法律でどう取り扱うかという前に、そもそも私たちの国は子供たちに「国を愛しなさい」と言えるような行いをしているかどうか、が問われなければならない。
半世紀前、国の募集に応じてドミニカ共和国に渡り、そこで期待に反して過酷な生活を強いられた移住者たち。「祖国に裏切られた」との思いを抱くのも当然だろう。危険性を認識しながら、フィブリノゲン製剤の使用を規制しなかった国。いったい患者は誰を信じて治療を受ければいいのだろう。
国民が国に税金を払う一番の理由は、自分の生命や財産を国に守ってもらうためだ。こんな国の対応を見て、納税者はこの国に喜んで税金を払うだろうか。役所の情報公開や説明責任が厳しく指摘されるようになってもうずいぶんたつが、いまだに官製談合や無駄遣いを繰り返す役人たち。私は財政再建のため増税はやむを得ないと思うが、これでは納税者の理解はとても得られない。村上ファンド関連での日銀総裁の対応も、通貨の番人としてふさわしいものだろうか。
「愛国心」と言われても、「そんな大人たちに言われたくないよ」という若者たちのつぶやきが聞こえるのは私だけだろうか。
6/19「年金廃止論」
「出生率は下がるし、社会保険庁は勝手に保険料を免除するし、本当に年金はもらえるのか。保険料を納付したくない気持ちよく分かるよ」。友人が、焼酎片手にほろ酔い気分で語る。こんな会話があちこちで交わされているのだろう。社会保険庁だけでなく、年金制度もそろそろ壊さなければいけないかもしれない。
定年後でも元気な高齢者は少なくない。平均でみれば、今の高齢者は貯金も資産も若者より多く持っている。高齢者は弱者との前提に立つ年金制度は、これからの社会にマッチしているだろうか。年齢に関係なく、憲法25条に定める「健康で文化的な最低限度の生活」を営めない人は誰でも政府が助ける。財源は私たちが払う税金だ。失業者が得をしない、働ける人は職業訓練を義務づける、という条件のもとで新しい生活保護の制度を考えよう。
その代わり公的年金は廃止する。もちろん社会保険庁は解体だ。保険料をごまかされるぐらいなら自分でこつこつためたほうがいい。税金は本当の弱者のために使う。いろいろな意見が出よう。支払い済みの保険料は返してくれるのか。税金は上がるのか。大いに議論しよう。このままいけば、いずれ年金制度は震度7レベルの激震に襲われる。誰も傷つかないというわけにはいかないが、今やり切れば震度3ぐらいですむかもしれない。
6/12「南京へ」
「そうか、硬座車が普通車で、軟座車がグリーン車か」。車両に記された漢字を見て、新たな発見をしたような気分になった。三時間あまり列車に揺られただろうか。中国は上海から鉄道で南京に入った。
六月一日、南京大学で日本の環境行政について、南京師範大学で日本の財政政策について、学生に講義。講義の後は、学生や先生と一緒に食事をした。
翌日は、「南京大虐殺記念館」に行った。多くの中国人入館者にまじり、説明を日本語で聞くのは私一人。私を無言で見つめる彼らの視線は冷たく鋭かった。遺骨の前で静かに敬礼する若い兵士の姿が今でも目に焼きついている。
今回の南京行きは、中国の知人にお願いをし、学術交流の一環として実現した。たった四日間の中国訪問だったが、私にはとても重い四日間だった。中国の反日教育について意見があるのなら、先ずは自ら現地に行って、自分の肌でその空気に触れなければならない。そして、体当たりで学生や市民と話をし、今の生の日本人を知ってもらうほかない。
「私のおじいさんは日本軍に殺され、子供の頃から日本人は悪いと教えられてきた。しかし、今日村尾先生と話をして、今の日本人は昔の日本軍とは違うかもしれないと感じた」。南京の人たちとの対話のなかでこの言葉を聞いたとき、また南京に来ようと思った。次は一人でなく、もっと多くの日本人を連れて。
6/5「マハティール氏」
「日本の外交は悪い方向に向かっている」と思う人が3割を超えた。先月20日に公表された内閣府の世論調査だ。この結果を見て私が思い出すのはマレーシアの前首相マハティール氏だ。
昨年夏、関西学院大学は彼を招いて、「アジアと日本」と題する講演・シンポジウムを大阪で開催した。進行役を務めた私との打ち合わせ通り、彼はきっかり40分でスピーチを終えてくれた。お会いするのは2度目だったが、物静かで、無駄口をきかず、決して尊大ぶらないその態度は、クアラルンプールでお話を伺ったときと変わらなかった。物腰は控えめだが、その存在感は確かだ。
「日本人はアジア人としての自覚を持って、アジアのリーダーにふさわしい行動を」「人間の往来が激しくなれば、日本にもいろいろな人が入ってくる。異なる文化、宗教、歴史を受け入れる寛容な気持ちを持って」「勤勉な日本人は私たちのお手本」「日本こそ西洋とイスラム社会の架け橋になれる」「他国と協力せよ。他国が豊かになれば、自国も豊かになる」
日本の対アジア外交を考えるとき、マハティール氏のメッセージは多くの示唆に富む。タイトな日程のなか、大手家電小売店に飛び込み、日本のハイテク製品を熱心に眺めていた彼。JR新大阪駅の売店で、関西のお菓子を興味深く試食していた彼。新幹線に乗り込む前の別れ際の握手、彼の手は柔らかかった。
5/29「Ohスモウ」
大相撲夏場所は、白鵬対雅山の優勝決定戦となり、白鵬が勝った。白鵬、優勝おめでとう。白鵬はモンゴル出身だ。それにしても、外国人力士はずいぶん増えた。幕内力士42人の中で13人がモンゴル、ブルガリアなどの外国出身だ。ロンドン郊外のウィンブルドンで行われる全英オープンテニスは、自国の英国選手よりも外国選手が優勝することが多いのだが、これをもって大相撲のウィンブルドン化と嘆くなかれ。
前向きにとらえよう。大相撲の国際化が始まったのである。この調子で大相撲ファンをアジアや欧米に広げていけばいい。アフリカ出身やイスラムの力士が出てきたらさらに面白くなるだろう。「排除の論理」が支配する社会は必ず衰退する。「包含の論理」こそ進化発展をもたらすのだ。
話は変わるが、私は市町村長の国籍はどこでもいいと考えている。自治体はサービス産業だ。最少の税負担で最大の住民サービスを提供すればそれでいい。もっともらしい理屈をつけて外国人の市町村長を排除しているが、本当にそれでいいのか。日産のカルロス・ゴーンさんのように、しがらみを断ってバサバサと役所のリストラを進めてくれるのではないか。今の選挙制度では、是非はともかく日本人だけが選挙権を持っているので、外国人にまちを乗っ取られる心配はない。大相撲を見習おう。
5/22「ピッチに立て」
サッカーのブラジル代表選手ロナウジーニョが泊まった部屋に宿泊できるプランがネットオークションに出されたそうだ。出したのはドイツ大会前に彼が滞在するスイスのホテル。オークションは、売り手が買い手を競りにかける。他方、買い手が売り手を競りにかければ、逆オークションになろう。たとえば、旅行者が行く先・日時・値段を指定して、ネット上で航空券を探す。すると航空券を提供できる航空会社や旅行会社が競りに参加してくる。
この発想で選挙の公約をつくろうと私は考えた。「私たちはこれだけの税金を払う代わりにこのサービスを要求する。同意する市長候補者がいたら投票する」。有権者が候補者に突きつける公約だ。今までは政治家が有権者に公約を示し、これを受けて私たちが候補者に投票した。これからは私たちが要求を示して、候補者たちを競りにかける。
私は5年前「有権者がつくる選挙公約」を提唱して、市民ネットワーク「WHY NOT」をつくった。私たちがオーダーメードで公共サービスを注文できれば、自治とか参加型民主主義という考え方がより身近になると考えたのである。「WHY NOT」は「どうして?やってみようよ」の意。今でも前途は多難だが、進む方向は間違っていないと思う。サッカーは観客席から応援したいが、社会を変えるには私たちがピッチに立たなければいけない。
5/15「組織の可視化」
「“密室”批判、返上なるか」。5月10日付東京新聞の記事である。日本の検察が、取り調べの一部をビデオで録画・録音することを決めた。取り調べの可視化である。司法の情報公開が一歩進むことになる。いろいろ問題を指摘する人もいるが、私は評価する。今、裁判制度はすごい勢いで変わりつつある。最たるものは裁判員制度の導入だ。私たち市民が裁判官と一緒に裁判を行う。司法への市民参加、裁判の情報公開といってもいい。
さて、行政も司法改革に追いつかなくてはだめだ。役所の労使交渉の可視化はどうだろう。職員の給料や待遇を決める労使交渉の一部始終をビデオで録画・録音して、市民に公開する。あるいは、労使交渉の現場に使用者側を代表して住民に入ってもらってもいい。住民は職員の給料を払う雇用者だ。こうすれば、お手盛りの手当などはなくなるに違いない。
役人は情報公開に拒否反応を示すことが多いが、実は情報公開は役人の身を守る盾にもなる。役人をしていた私も経験があるが、役所に無理難題を迫る政治家、圧力団体、市民は少なくない。その時、相手に「この面談はビデオで録画・録音することが法令で義務づけられていますので」というセリフが言えたら、善良な公務員はどんなに助かるだろう。「組織の可視化」は官民ともにいい話ととらえなければいけない。
5/8「戦争の予感」
「日本が戦争に巻き込まれる危険があると答えた人は45%」。先月29日に発表された内閣府の世論調査結果だ。45%は過去最高。私は国・地方の財政の実務に携わってきた人間で、今日の財政破綻の原因は、政治家、役人そして国民に「税金は私たち自身のお金」という当事者意識がなかったことだと自省の念を持ってそう考えている。同様に、将来戦争が起こるかどうかは、国や社会のことを自分自身のこととして考え、行動する力が私たちにあるかどうかにかかっていると思う。
憲法記念日の5月3日付東京新聞社説の通り、特に私たちの世代には「平和」を生きた責任がある。小泉さんは昨年の総選挙で「靖国は争点にしない」と言ったが、靖国こそ争点にすべきであった。靖国から対中国アジア政策そして憲法第9条へとつながっていくのである。野党は靖国を最大の対抗軸にすべきだ。前回の総選挙の投票率は67.51%。最近は7割を切って6割台を低迷している。こんなところにも社会に対する私たちの当事者意識の低さが表れているのではないか。
一見私たちとは関係のないところで社会は動いているように思えるかもしれない。だけどそれは違う。私たち自身がこの社会をつくっているのだ。戦争は私たちの意に反して起こるのではない。オノ・ヨーコさんも言っている。「戦争は終わる。もしあなたが望むなら」
5/1「五月の鯉」
「五月(さつき)の鯉の吹流し」。5月の空に泳ぐこいのぼりのように、何事も腹に留めずさっぱりとした気質をいう。人生楽しいこともあれば、つらいこともある。気がめいった時私が思い出すのはこの言葉だ。心地よいそよ風も激しい雨風もすべて飲み込み、吐き出して、風に乗る。悩みは無理をしてでも忘れてしまえ。
中国の『荘子』にもこんな言葉がある。「送らず迎えず応じて蔵せず」。過去の失敗や将来の不安にくよくよせず、ことが起こったら臨機応変に対応して心の中はいつも空にしておく。
写真を見て悩みを吹き飛ばすのもいい。私にとっては、米国のアポロ宇宙船から撮った写真だ。月の地平線上、暗黒の宇宙にぽっかりと浮かぶ青い地球。自分という存在のなんと小さいこと。これを見ると自分の悩みが取るに足らないものに思えてきて、ばからしくなってくる。竹島を巡る日韓の外交関係者も一度この写真を見てみたらどうだろう。
元気が出る音楽だったらヨハン・シュトラウス一世の「ラデツキー行進曲」だ。ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートではリズムに合わせて聴衆も手拍子を打っている。聴くと「さあおれも」という気になる。4月からの新しい職場や環境。ちょっと不安になる時期だが、みんないろいろなやり方でストレスを解消している。今日から風薫る5月だ。
4/24「ビバおしゃれ」
「ちょい悪オヤジの○○スタイル」。こんな見出しの雑誌が本屋で目につく。今どきの青年がおしゃれに気をつかうのはしかたがないとしても、中年の男性までファッションを意識しだした。
「男は中身だ」という言葉に共感を覚える私だが、人から「そろそろ散髪に行ったら」とか、「そのネクタイは地味」とか、「ポケットチーフをさりげなく」なんて言われると、さすがに「見た目」を意識せざるを得なくなる。それにしても、カフスボタンをつけるだけで気が引き締まったり、細めのズボンをはくと背筋が伸びるような気分になるのが不思議だ。確かに男でもおしゃれをすれば気の持ちようは大きく変わる。
学校の先輩で、帝国ホテルプラザに宝石店を出しているHさんが、以前、プードル犬をデザインしたタイピンを見せてくれた。頭やシッポなどには小さなダイヤが埋め込まれている。とてもおしゃれだと思ったが、ジャケットの襟につけたほうがもっとすてきだな、と感じた。普段おしゃれには縁のない私だが、そんなことを考える自分が新鮮だった。
さて、街を歩く人を眺めていると、不思議なことにその人の人相とファッションには少なからぬ関係があるように思う。米国の元大統領リンカーンは「四十を過ぎたら自分の顔に責任を持て」と言ったそうだが、ファッションについてもそれはいえる。
4/17「クラゲアイス」
「何をやってもだめだった。もうやめようと思ったとき、足元に神様がいた」。入館者数が下降の一途をたどっていた山形県鶴岡市の加茂水族館。施設の老朽化は隠せない。平成9年にサンゴの展示をした際、たまたまサンゴに付着したクラゲの卵がかえり、クラゲを見て喜ぶお客さんの顔を見て「クラゲでいこう!」と村上龍男館長は思いつく。
水族館の裏は日本海。海が静かなときは、館員と一緒にクラゲや魚を取りに行く。自分たちで工夫した水槽のなかで、試行錯誤しながらクラゲを育てた。今では20種類以上のクラゲが常時展示され、クラゲコーナーは幻想的な雰囲気をかもしだしている。
「クラゲの寿命は数ヶ月。どうやって育てていいのかも分からなかった。何度も失敗したが、くじけるわけにはいかない。必死だったが楽しかった。地方の小さな水族館がみんなと同じことをしていたらダメだ」と村上さんは言う。クラゲ展示後は県外からの訪問者も増え、入館者数はV字回復を始める。
今、地方の再生が叫ばれているが、お役所主導の地域おこしはすぐに息切れする。再生の決め手は、行政による支援でも資金力でもない。地元で暮らす人々のフロンティア精神だ。役所はその人たちの邪魔をしないこと。水族館の中のクラゲレストランで、クラゲを素材にしたクラゲアイスを食べながら、そう思った。
4/3「理想の上司」
「理想の男性上司はプロ野球の古田敦也監督、女性上司は女優の黒木瞳さんと山口智子さん」。今年の新社会人を対象にした生命保険会社の調査結果だ。なんとなくうなずける結果ではある。
ところで、私も役所に勤務していたころはいろいろな上司に仕えた。予算の折衝などで議員や関係団体と激しく対立したとき、上司の対応を見て「なるほど」と感心したり、「これでは上司失格だ」と失望したこともあった。部下は部下なりに上司を観察している。
相手のところに出向いて交渉しても、「お前では話にならん」と怒鳴られ、すぐその場で、彼が私の上司に直接電話をしたことがあった。彼の電話の受話器を通して、私を守ろうとする上司の声が聞こえたときは、「この上司のためなら」と胸が熱くなったことを思い出す。
私は上司に次の二つを求める。一つは「自分でリスクをとる覚悟」。失敗しないことを考える上司は多いが、それでは進歩はない。前進しようと思えば失敗するかもしれないが、失敗を恐れたらだめだ。失敗した後の対応を自分で考え、自ら行動する人間でなければいけない。
もうひとつは「逆境にあっても笑顔」。すばらしい上司や先輩たちには、困難な状況に置かれても常に笑顔があった。この笑顔によって部下は勇気づけられ、幸運が舞い込んでくる。暗い人には幸運の女神も近寄りたくない。笑顔なくして勝利なしである。
3/27「夢のよう」
「戦争のない世の中がいい」。主婦のKさんがご近所の皆さんに「どんな世の中になればいい?」と聞いたとき、こう答えた人が少なくなかったという。少し前までは考えられなかったことだ。戦争は人ごとではない、と市民は肌で感じている。Kさんは、視点を変えてもうひとつの日本をデザインしようと私が立ち上げた勉強会のメンバーだった。
さて、今年も桜が咲いた。桜といえば、画廊を営んでいた故・州之内徹氏の随想が心にしみる。所は山口県仙崎、時は終戦翌年の春。復員船から上がってきた二人の兵隊が桜吹雪の中を歩いている。以下、州之内氏の文章。「ひとりが花を散りこぼしている桜の梢を見上げて、もうひとりに、『おい、夢のようだなア』と、言った。・・・『夢のよう』という使い古されて殆ど無意味になってしまった言葉が、あんなに生々と、感動的に使われるのを、私はあのとき限り、前にも後にも聞いたことがない。彼等にとってはほんとうに、文字通り、夢のような心地だったろう」。
在日米軍再編で沖縄がゆれている。日中、日韓は動きが取れない。イラクはますます先が見えない。憲法九条を改正するリスクに鈍感な人々が増えている。州之内氏の随想を読んで私が感じることは、私たちが60年間あたりまえのこととして眺めてきた桜を「夢のよう」だと思う世の中にだけはしたくないということだ。
3/20「ゲバラ」
チェ・ゲバラの顔がプリントされたTシャツを若者向けの店で見かける。ベレー帽をかぶり、ヒゲ面の容ぼうは確かに魅力的だが、彼が何を考え、何をしたかを知っている若者は何人いるだろうか。
1928年、アルゼンチン生まれ、55年、メキシコでカストロに出会い、当時のキューバ・バティスタ政権を倒すため、キューバの革命戦争に参加。カストロ政権誕生後、今度はコンゴ、ボリビアでゲリラ戦に加わり、67年、ボリビア政府軍によって処刑された。
行動する理想主義者だ。南米の坂本竜馬かもしれない。暴力革命はいけないが、日本を洗濯してやろうという若者が出てきてほしい。敗戦直後の日本人は大きな挫折を経験したが、一方で確かな希望があったことは、当時を回想する人々の語り口から分かる。今の日本はなげやりな気分が漂っている。豊かな社会のなかで、豊かさを生み出した源泉であるアニマル・スピリットが確実に失われつつある。
カタチから入ってもいい。ゲバラを着て、当時の世界情勢を勉強し、これからの日本を考えてみたら。ゲバラはこんなことも言っている。「もしわれわれが空想家のようだといわれるならば、救いがたい理想主義者だといわれるならば、できもしないことを考えているといわれるならば、何千回でも答えよう、そのとおりだ、と」
3/13「東京五輪?」
「賛否を判断できる材料があまりにもなさすぎる」。東京都の2016年五輪招致に疑問を持つ都議会議員の発言だ。私もそう思う。なぜ今五輪招致なのか。きちんとしたプロジェクトの評価が大切なのに、「人類の英知と創意工夫を結集」「都市問題の解決に先駆的に取り組む」「青少年の未来を切り開く」など具体性に欠け、文字だけが躍っているようなことを言われても、都民とすれば「それで?」だろう。
そもそもプロジェクトの是非を議論するなら、費用はいくらか、収益はいくら期待できるのか、税金はいくら投入するのか、などのデータがないと話にならない。
ところで、東京都が五輪招致に動きだすとして、勝算はあるのか。08年北京五輪があるのに、16年の五輪がまた東アジアで開かれるだろうか。それも1964年の開催地東京で。冬季五輪を入れると日本はすでに3回も五輪を開催している。招致費用はいくらか。失敗した場合、それはムダになるのだから、あらかじめ都民に断っておかなければならない。
それよりも、都民の一人である私としては、大地震への備えは万全なのか、多発する犯罪にどう対処するのか、もっと他にやるべきことはいっぱいあると思ってしまう。
五輪招致という拳を振り上げる前には入念な準備と確たる見通しが必要なのに、それでも都議会は先週これを決議した。
3/6「予算委員会」
「予算委員会は、それこそ劇場の舞台にたとえるならば、東京は歌舞伎座の本舞台であり、外国の大都市におけるオペラ・ハウスの舞台といっていいでしょう」。かつて大蔵省主計局長を務めた故橋口収氏はこう表現した。
国会の予算委員会の特定日には全閣僚が出席し、その模様はテレビでも放送される。なぜこんなに注目されるのだろうか。それは私たちの税金の使いみちを、納税者の代表である国会議員が議論する場であるからだ。予算は内閣の方針を金額という数字で示したもので、これが国会で承認されないと、政府は動きようがない。だから各省庁の大臣や役人たちは真剣勝負で予算委員会に臨む。予算案の審議中、東京・霞ヶ関はまるで不夜城だ。
生活保護の支給額はいくらにするのか。道路はどれだけつくるのか。開発途上国にどこまで支援するのか。借金を30兆円もして大丈夫なのか。景気が良くなれば財政赤字はなくなるのか。政府の資産は簡単に売れるのか。特別会計の中身は何か。公務員の給料は高いのか。先月の衆議院予算委員会では、いったいどれだけの議論がなされ、何が問題として私たちの前に明らかになったのだろうか。「喝!」というほかない。
来年度の予算案は委員会での審議を終え、先週衆議院を通過した。私たちの暮らしはどうなるのか。予算案は参議院に送られて、今日から参議院予算委員会で審議が始まる。
2/27「美しい日本?」
「畳の上で眠ると、まるで草原で寝ているようだ」。以前、知人の米国人が日本の旅館の思い出を語ってくれた。青くて新しい畳の匂いを思い出す。歳のせいかもしれないが、和室の美しさを体で感じるようになった。障子を通って白くて淡い光が入り込む。その障子の桟が作る幾何学模様はとてもモダンだ。壁の一輪挿しにつぼみのままの花を生けると、それでもう凛とした気配が漂う。
戦前、京都の桂離宮を訪れ「これ以上単純でしかも同時にこれ以上優雅であることはまったく不可能」と言ったのはドイツの建築家ブルーノ・タウトだ。日本の建物や和室の美しさは世界でも十分通用するだろう。ああそれなのに、日本の都市の風景は・・・。
最近、国内各地を訪れる機会が多いが、駅前の風景はどこも醜い。無秩序に並んだコンクリートの建物、品のない看板、無造作に置かれた自動販売機、放置自転車。あの日本人の美的センスはどこへ行ったのか。戦後六十年間に蓄えた富の一部を美しい公共空間の創造に充てていたら、と残念でならない。
ロンドンやパリやローマに多くの観光客が訪れるのはなぜだろう。めまぐるしく変わる東京の風景を見るたびに、遠い過去とはるかな未来をつなぐのが現在である、との視点が欠けていることを痛感する。私たち日本人は千年の歴史に耐える公共空間をつくることができるだろうか。
2/20「日本はいい」
「世界に最も良い影響を与えている国は日本」。2月4日の東京新聞夕刊は、米メリーランド大による国際世論調査の結果を紹介した。
「短所をしかるより長所をほめろ」とよく言うが、私が考える日本の長所を3つあげよう。まずは「平和」。昨年の防衛白書によると、第2次世界大戦後世界で97の戦争があった。アジアだけでも28だ。いたるところで戦争が起きたが、日本は一切戦争に巻き込まれていない。憲法9条の存在は大きいと思うが、私たちは誇っていい。
次は「環境」。政府の統計を見ると、日本は世界第2位の経済大国で2000年には世界の富の15%を稼ぎ出した。しかし、その年の二酸化炭素の排出量は世界全体の5%だった。日本はエネルギー効率の非常に高い国なのだ。「もったいない」の精神は日本の中で脈々と生きている。
さらに「健康」。医療や福祉の水準が低ければ、人間は長生きできない。これも政府の統計を見ると、日本人の平気寿命は02年で81.9歳、世界一である。国民の幸せの度合いを測るものさしを示せといわれたら、平均寿命をあげたい。戦争や犯罪がなければ平均寿命も延びる。幸せの中身は一人一人違うものだが、生きていなければ幸せを感じることはできない。
日本の将来を悲観する前に、日本の長所を認識して自信を持とう。日本はいい国なのだ。
2/6「市民の足」
「市民の足を確保するためなら喜んで税金を払う」。市営バスについて考える討論会での私の発言。「ただし、バスの運転手が公務員である必要はない」。ここまで言うと、市役所の職員は急に身構え、議論は熱を帯びてきた。
市民にとって市内を移動する公共の交通機関はなくてはならないものだ。このような公共サービスには市民の税金を充てていい。問題なのは、誰が実際にバスを運転するかである。市営バスであれば運転手はじめ職員は公務員だろう。給料は安定しており、身分も保障されている。
しかし、民間のバス会社もバスを走らせている。市営でも民間でも運転技術に差があるわけではない。納税者の立場からは、市営バスの路線を公開競争入札にかけて、市と民間会社を競争させたいところだ。採算の取れない路線もあるから、そこには私たちの税金を入れてコストを低くする。こうすれば民間会社も入札に参加してくるだろう。落札した者がバスを運転する。
もちろん、安全のチェックなど市民や行政の目が行き届く仕組みは欠かせない。官でも民でも透明な組織を義務付ける。
福祉や環境などの問題でも、これからはみんなで税金を負担しなければならない公共サービスが増えてくる。しかし、役人の数は増やさない。公共のサービスでも民が担うのだ。政府の大きさを議論するのもいいが、そろそろ政府の質も考えなければいけない。
1/30「一灯を頼れ」
「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」。バブルが崩壊して約15年、多くの会社や金融機関がつぶれた。生活が大きく変わり「こんなはずじゃなかった」と思っている人も多いだろう。世の中が激しく移り変わるさまを見ていると、どうしても鴨長明『方丈記』を思い出す。
『方丈記』はまた天変地異に対する人間の無力さにも触れている。世界各地で起きる地震、台風、異常気象などによって尊い人命、財産そして希望が失われている。多くの人が嘆き悲しむ姿を見るにつけ、世の中の無常を感じないわけにはいかない。こうした人や組織のはかなさを思うとき、鴨長明のように山中に庵を結びたくなる気持ちも分かる。
ところで、同じこの世の中を『平家物語』はこう表現する。「奢れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し」。このフレーズだと、私の心にはもうひとつ別のイメージが現れる。今は苦しくても時代は変わると信じ、「今日のマイナーは明日のメジャー」と頑張る人にとっては、強固な既得権益も「春の夜の夢」に思えてくる。無常は強者にとっても無常であるわけで、それは少数者や弱者にとっては希望と見ることも可能だ。同じ風景でもどこを見るか、どのように見るかで、イメージは大きく異なる。
「一灯を掲げて暗夜を行く。夜の暗さを憂えずに、ただ一灯を頼れ」江戸時代に生きた佐藤一斎の言葉である。
1/23「チームで選挙」
「役所にはチームで乗り込まないと」。役所を変えたい市長と動かない職員を見ていて、私は今こんなことを考えている。これからは、市長一人で選挙に出るのではなく、市長、片腕となる助役、人を動かす人事部長、お金を配る財政部長、と四人でチームを組んで選挙に立候補するのだ。チーム「四人組」である。
どんなに有能な市長でも、役所を本気で改革しようとすれば、大勢の職員を相手に一人で立ち向かうには限界がある。さて、役人は人事と予算に弱い。人事部長と財政部長、この二つの実務ポストを握らない限り役所は変わらないので、ここには役人から嫌われてもくじけないやり手を外部から入れる。人事と予算に情報は集中するから、役所の中で不正があればすぐ分かる。他方、助役は敵をつくらない温厚な人を据える。いろいろな所にパイプを持ち、ギリギリの局面では抵抗勢力とも話ができる。市長は明るくて運のいい人が適任だ。もちろん四人は一心同体である。
市長一人でこんな人事をやろうと思っても、いろいろな抵抗があって実際は難しい。市長選挙のときに、政策とともに四人の名簿を公約に掲げて当選すれば、これほど強いものはない。議会も役所も抵抗できないだろう。アメリカでは、大統領と副大統領がペアを組んで選挙を戦う。「チームで選挙!」どうだろう。
1/16「消費者省」
「中央省庁再編から丸五年たち再々編しなくてはいけないかもしれない」。自民党幹部の発言だ。役所の組織をコロコロ変えるのもどうかと思うが、今の霞ヶ関の組織は私たち市民にやさしくないことだけは確かだ。総務省は何をやっている役所か分からない人も多いだろう。生活排水でも下水道は国土交通省、浄化槽は環境省だ。
中央省庁のあり方を見直すなら、「消費者省」をつくるべきだ。昨年のJR西日本の脱線事故、アスベスト被害、構造計算書の偽装などの事件で忘れてならないのは、企業の利益より消費者の安全ということだ。しかし、鉄道会社や建設業者を監督する国交省が乗客や住民の利益を本気で考えることができるのか。日本の役所は、国交省に限らず、病院は厚生労働省、農家は農林水産省、家電メーカーは経済産業省などとそれぞれ業界を持っている。これでは、役所は消費者の味方か業界の味方か分からない。また、消費者にとって、たらい回しをされながら、担当の役所を見つけて苦情や不満を言うのは大変だ。
消費者からのすべての苦情を一手に引き受けて、霞ヶ関の中で消費者の利益を代弁する役所がほしい。消費者のための「消費者省」である。消費者の力が強くなれば優れた企業しか生き残れない。企業の国際競争力も高まっていく。省庁再々編をやるなら、その目玉は消費者省の設置だ。
1/9「海」
新幹線の車窓から今年初めての海を見た。陽の光に照らされて水平線が輝いている。飛騨の山国育ちのせいか、私にとって海は日常の風景ではない。海を見るだけで心のリズムが変わる。ともすれば内を向く心を外に開かせ、過去を振り返る心を未来に向ける。そんな作用が海にはある。
「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」と論語にある。私は知者でも仁者でもないけれど、海が好きだ。陸の上ではどうにもならないことも、海へ出ると何かが起きる気がする。ヘミングウェー作『老人と海』の老漁師サンチャゴも、「きっと今日こそは。とにかく毎日が新しい日」と信じて海に出て行った。サンチャゴは海を女性と考える。「それは大きな恵みを時には与え、時にはお預けにする」。
海を行き止まりと考えてはいけない。海から新しい世界が始まるのだ。旧いヨーロッパを捨てて新大陸アメリカを目指した人々の気持ちが分かるような気がする。かつて地方自治体に勤務して行革に取り組んでいたころ、行き詰まると車を走らせてよく海を見に行った。あの時の潮風の香りが今は懐かしい。
リストラ、失恋、ニート、いじめ、暴力、ケガや病気・・・。生きていればいろんなことがあるけれど、最後のよりどころは自分の気の持ちようだと思う。海は私の気分をハイにする。さぁ、今年も動くぞ。
2005年
12/26「入るを量りて」
「入るを量りて出ずるを為す」。収入を計算してそれに見合う支出をする。中国の古典にある言葉だが、日本ではむなしく聞こえてしまう。
来年度の政府の予算案が決まったが、またしても支出が収入を大幅に上回ってしまった。収入の税金は46兆円しか見込めないのに、支出は80兆円。他の収入を4兆円集めても、不足分の30兆円は借金しなければならない。支出の4割弱を借金に頼る「大盤振る舞い」の予算だ。こうして積もりに積もった国の借金残高は、来年度末に600兆円を超える。世界一の借金大国ニッポン。その借金は将来増税という形で子供たちが返すのだ。
考えてみると、私たち有権者世代は私たちの代表である国会議員を選んで、子供たち非有権者世代のお金を、自分たち有権者のために使おうと国会で議論している。かわいそうな子供たち、「代表なきところ課税なし」だ。こんな国に生まれてきたら大変と、「日本にだけは運ばないで」とコウノトリに頼んでいる赤ちゃんがきっと多いに違いない。日本の出生率が低いのもうなづける。
財政再建は私たち有権者世代の義務だ。役所の無駄遣いをなくすのは当たり前だが、支出をカットするだけでは限界がある。たとえ有権者に嫌われようと恨まれようと、増税の必要性を今から愚直に説明するのが本当の政治家だと思う。
12/19「日本の手すり」
「ご存知でしたか? 駅の階段で見かける、高さが違う二本の手すり。低いほうは子供や背の低い方にはありがたいですよ。ちょっとした気配りで世の中がずいぶん住みやすくなりますね」。
Aさんからこんなメールが来た。Aさんはユニバーサルデザインを紹介するCS放送番組のキャスターを務めている。ユニバーサルデザインは、誰もが分かり、誰もが使えるデザインで、たとえば音でも知らせる交差点の信号機、右利きでも左利きでも使えるはさみなどだ。
これからの日本は人口が減るなか、少ない若者で多くのお年寄りをケアしていくことになる。さらに彼らは700兆円を超える役所の借金の返済にも苦しまなければならない。気の毒な若者たち、ピンチの日本。もう政治家や役人だけに任せておけない。私たちは、「小泉劇場」をいつまでも観ているわけにはいかないのだ。そろそろ私たち自身が観客席から舞台に上がるときではないか。それこそ全員野球で日本を支えるのだ。
高齢者、障害のある方、女性、外国人の方にも活躍してもらいたい。そのためには、バリアフリーのまちをつくり、職場の育児休暇を充実し、外国人でも優秀なら役所の幹部にする・・。ピンチの今こそ、日本を、誰もが参加できるユニバーサル社会につくり変えるいいチャンスなのだ。
12/5「明日があるさ」
「何か質問ある? 私話す人、きみたち聞く人ではつまらない。みんなで話して、みんなで聞かないと」。先週、首都圏の公立中学校で600人近い全校生徒に話をした。選挙の大切さをひと通り話した後、彼らの考えを聞いてみようと思った。最初は戸惑っていたが、そのうち周りからつつかれたり、興味半分で手を上げるものが出てきた。手を上げた生徒は、ステージに上がってもらった。
「どうして選挙権は二十歳からなのですか」「先生は日本を愛してますか」「好きな食べ物は」「好きな女の子のタイプは」「役所の借金は誰のせい」「高速道路を無料にしたら」「今の日本はなんかおかしい」「先生は小泉首相に何が言いたいですか」いろんなことを聞いてくる。ステージでVサインをする生徒も現れた。手を握ったり、肩を組んだりして生徒を見ると、みんな優しい目をしている。生徒たちは間違いなく話をしたいのだ。
こんな質問もあった。「先生は失業したと言ったけど、失業中何を考えてましたか」。「明日があるさ、って歌っていた。ゴールしたときよりも、ゴールを目指して走っているほうが幸せだよ」。こう言ったら、彼もうなずいた。
私たちは、この生徒たちに「明日がある」と思える日本を手渡せるだろうか。希望を持てる日本を若者に渡すこと、これが私たちの義務である。
11/28「怒りのマグマ」
「こんな怖いマンションには、もう住めない」。住民の怒りや不安の声が渦巻く。構造計算書を偽造して建てられたマンションは耐震性に問題があることが判明した。ウソをついただけでも許せないのに、住民の安全を考えなかったとしたら、これはもう本当に怒らなければならない。今は関係者の間で責任のなすりあいなどをやっているときではない。住民の安全を最優先にして対応してほしい。
私たちはメーカーや売り手の情報を信頼して、商品やサービスを購入している。消費者が企業に強く求めるものは、商品やサービスの中身についての情報開示や分かりやすい説明、そして何よりも企業組織そのものの透明性だ。
さらに消費者だけでなく、納税者も怒っている。成田空港の電気工事をめぐる談合である。この談合によって、本来支払わなくてもよい経費を納税者が負担させられた。ここでも求められるのは入札制度や組織の透明性だ。組織の中で「絶対しゃべるな」という言葉が飛び交う企業や役所は、遅かれ早かれ、消費者や納税者の怒りのマグマに焼き尽くされてしまうだろう。
一人憤りながら、山奥の秘湯で、「当館のお風呂は天然百パーセントかけながしの温泉です。白くういているものは湯の華です。不純物ではありません。館主」の張り紙をじーっと見つめる私がいた。
11/21「日銀券」
「お客様は神さまです」と言ったのは、歌手の三波春夫さんだった。歌手に限らず、どんな商売でも生き残れるかどうかは、お客様次第だ。
先日、贈り物のお菓子を買おうとデパートの地下に入った。洋菓子、和菓子いろいろある。こちらでは店員が「どうぞ召しあがれ」と声をかけ、あちらでは甘い香りが私を誘う。お店は私の気を引こうと懸命だが、最後に決めるのは消費者としての私である。
私たちの財布には、日銀券というお札が入っている。この日銀券はいわば投票用紙であり、買い物とは、日銀券を使って私たちを満足させてくれるお店に投票することだ。そして、消費者の要求を満たす者が生き残り、そうでない者は退場を余儀なくされる。市場とかマーケットと呼ばれるところは消費者の投票所と考えてもいい。
私たちが選挙の投票によって国民の代表を選ぶとき、主権は国民にある。同じように、私たちが市場での買い物によってお店を選ぶとき、主権は消費者にある。お客様は神さまなのだ。
ところで、苦境にある企業や産業を救おうと役所が補助金を出すことがある。しかし、これは消費者の意に反することだ。役所が私たちの日銀券を税金として取りあげて、私たち消費者に選ばれなかった企業や産業に配っているとしたら問題だ。産業保護を名目とした補助金は、しっかりチェックしたほうがいい。
11/14「話せば分かる」
「日本は広島・長崎を経験した。その日本がなぜ、核兵器を持つ中国に経済援助をしなければならないのか?そう考える日本人は少なくない」と私が発言したとき、北京の中国人民大学の先生たちの表情が険しくなった。先日私は、同大学で「日中経済貿易関係座談会」に出席した。座談会はとてもエキサイティングで、議論は予想通り、過去の戦争に対する償い、靖国参拝などにも及んだ。
同じ議論が繰り返されることは決して悪いことではない。日中間でもっと多くの人々が、面と向かって議論を繰り返すことが必要なのだ。直接会って議論すれば理解と友情が生まれる。日本人が日本のなかで日本人に向かって「中国は・・」と非難しても何の役にも立たない。中国も同じだ。中国の人々は日本人が思うほど反日的ではないし、日本人は中国が思うほど好戦的ではない。ここは、「話せば分かる」でいくべきだ。今の危機は、両国の人々がお互い話そうともしないことなのだ。
北京の秋空は美しいことで有名だが、滞在中はいつも霞んでいた。街路樹の葉にも精気がなく、大気汚染の進行が何か影響しているのではないか、と感じた。「日本は水俣病や四日市ぜんそくを経験した。その日本だからこそ、環境破壊が進む中国に技術支援をするべきだ。そう考える日本人は少なくない」。次回はこう発言しようと思う。
11/7「沈黙の秋」
「今年も紅葉は遅いですよ。やはり地球は暖かくなっているのですかね」。この秋同じ言葉を、熊本の阿蘇山中でタクシーの運転手さんから、そして長野の駒ヶ根で地元の市役所職員から聞いた。これを裏付けるように、先日、気象庁はカエデの紅葉が51年間で平均15日遅くなっていると発表した。地球温暖化などが影響しているという。
地球温暖化の原因とされる二酸化炭素などを減らすために、先進国が京都で削減目標を決めたのは1997年のこと。日本もこれから脱二酸化炭素社会をつくっていかなければならない。今ガソリンに課せられる税金は道路整備などに充てられているが、道路をつくってますます車が二酸化炭素をばらまくのは困りものだ。ガソリンを燃やすことは環境という大切な資源を破壊することと考えてみよう。そう考えれば、ガソリンにかかる税金は、太陽光発電や風力発電など自然エネルギーの導入や、二酸化炭素を吸収する森林の整備などに使うといった発想が出てくる。
62年、アメリカの環境問題専門家レイチェル・カーソンは『沈黙の春』を発表した。いつもなら小鳥の鳴き声で春の夜は明けるのに、人間の自然破壊で鳥たちはいなくなり、自然は沈黙してしまった・・。環境破壊の恐ろしさを警告する書である。遅い紅葉を眺めながら、「沈黙の秋」が来ないことを望む。
10/31「みなぞうの死」
「水族館で子供たちは生きている魚や動物しか見ないけど、本当は死んだ動物を見せてあげるのも大切なことだ」。今月四日、新江ノ島水族館の人気者だった大アザラシの「みなぞう」君が死んだ時、同水族館の設立にも関与したNさんは私にこう言った。
そういえば今の時代、私たちは愛しい動物の死に直面して、その亡骸としっかり向き合う時間がどれほどあるだろうか。動物の死骸を見ると、「かわいそう」「こわい」と言って、目をそむけたり、逃げてしまう子供たちが多い。私たちの暮らしから現実の死がどんどん消え、そして、私たちは空想の世界でしか死を考えられなくなっている。猟奇殺人などは死をバーチャルにしかとらえられない者の犯行だ。愛するペットの死骸を抱いたとき、今までとはまったく違うその感触に、命の尊厳を思い、生命の不思議さを感じた方は少なくないだろう。
今月二十一日、相模湾の浜辺に打ち上げられたクジラが死んだ。このクジラの体長は、「みなぞう」君と同じ四・五メートル。解剖して死因を調べると報じられていたから、既に解剖されてしまっただろう。解剖もいいが、この浜辺にそのまま安置して、土に還るクジラをみんなで見守ることはできなかったか。異臭や衛生面などのことを考えたらとても無理な話だと分かっていても、ついそんなことを考えてしまう。
10/24「クールな政治」
「民意に従うのが政治家だ」との言葉がどうしてもひっかかる。一度は郵政民営化法案に反対したのに、総選挙後賛成に回った国会議員の発言だ。自分の信念を貫くのが政治家であって、民意に従うばかりであればこんなに楽なことはない。
私は政治を生業(なりわい)にしてはいけないと考える。政治を職業にすると自分の生活イコール政治となり、政治的な敗北は人生の敗北になる。だから、その政治決断には私的な利害が入り込んでしまう。職を失いたくないのであれば、民意に従えばよいのである。研ぎ澄まされた政治判断などできるわけがない。
政治にはどこかでクールさが必要だ。自分の生活を確保したうえで余力を政治に注ぐ。こんなスタイルで政治にかかわらないと思い切った改革はできないし、普通の人々は政治の世界に飛び込んでいかないだろう。命がけのホットな政治より、オフタイムのクールな政治の方が健全な判断が下せるのではないか。
たとえば、次のようなルールをつくって選挙に臨むチームがあれば面白い。選挙の費用は会費で賄い、立候補者に自腹を切らせない。立候補者の家族を選挙に巻き込まない。落選した場合を考えて、立候補者の仕事先をあらかじめ探しておく。仮に当選しても八年を超えてその公職にとどまらない。あとはチームで後任者を選ぶ。あなたも仲間に入らない?
10/17「武装護憲論」
「そんなファジー(あいまい)な考えはだめだ!」。案の定、憲法9条の改正を叫ぶ国会議員らから激しくかみつかれた。先日、各党の国会議員を含むメンバーで討論したときのことだ。私の主張は「武装護憲」で考えはこうだ。
9月2日の東京新聞は、「中国、自国の軍事費は日本の6割と主張」と報じている。中国は憲法9条の存在を知りながら、日本の巨額の防衛予算を認めている。日本の防衛予算は約5兆円、世界有数の規模だ。改憲しなくても、着実に防衛力を整備していけばいい。
それよりも改憲したときの中国の反応がこわい。反日デモどころではない。今や中国は日本にとって最大の貿易パートナー。日中間の経済交流は日本経済の生命線だ。もし改憲を理由に、中国が日本に対して「経済制裁」をしたらどうなるか。日本では企業が倒産し、失業者が増大するだろう。日本経済のダメージを真剣に考えるべきだ。
国際政治は、反対派議員に刺客を送った小泉さん以上に非情である。中国や近隣諸国の思いをよく見極めよ。憲法9条を守りながら、アメリカの顔も立てて、これまで何とかしのいできたではないか。
そろそろスッキリしたい気持ちも分かるけど、いろいろないきさつがあった大人どうしのつきあいはファジーでなければうまくいかない。
10/10「官から民へ」
「会社のOLですが、お金もうけ以外のことに打ち込みたくて」。「専業主婦ですが、このままの暮らしをしていると、家の壁に向かって話をしそうで」。「借金を抱えているおばあさんが老人ホームから追い出されると聞き、私にできることはないかと考えて」。女性NPO研修会に講師として招かれた時のこと、研修会に参加した動機を語る女性の皆さんだ。
ボランティアや市民活動など営利を目的としない社会貢献活動に関心を持つ人がずいぶん増えた。政府の調査によると、「社会のために役立ちたい」と思っている人は約六割いる。NPO法人の数も右肩上がりで増えており、今や約二万三千。これからは役所の「官」に代わって、市民の「民」が地域社会の担い手になっていく。小泉首相の「官から民へ」は、郵政民営化のように役所の仕事を民間企業にゆだねるだけではないはずだ。市民自身が当事者意識を持って、役所に頼らず自分たちの地域社会をつくっていくことも「官から民へ」なのである。
「役所は本当に頼りにならないと分かると、住民が底力を発揮する」とは、北海道のある町長経験者の言葉。民の可能性が期待される今、民にはこれからの社会を担う自覚が強く求められる。かつて米国のケネディ大統領が言ったように「国が皆さんに何をしてくれるのかではなく、国に対して皆さんは何ができるのか」が問われている。
10/3「視点を変える」
「あなた、このバッグ持ってて」「早くしろよ。もうすぐ第二幕だ。だからあまり飲むな、と言ったのに」「しかたないでしょ」
カップルのこんな会話が聞こえてきた。私たちが劇場やコンサートホールに出かけて必ずそこで見かける光景は、休憩時間や幕が降りた後、トイレに並ぶ女性の長蛇の列。男性はバッグを抱えてウロウロ。もっと女性用トイレが多くあれば・・。そう考える女性は少なくない。
例えば男女のトイレ面積比を男性1に対して女性5にすれば、女性の方も休憩時間はゆっくりワインやコーヒーを楽しめる。これまでの公共ホールは男性の視点で設計されてきたのではないか。これからは女性の視点を取り入れてデザインすれば、より多くの皆さんが心地よい空間と時間をエンジョイできるだろう。
同様に、私たちが暮らしている社会も今までとは異なる視点で見直せば、もっと暮らしよい社会が築けるはずだ。アスベスト被害が深刻化する中、問題を生産者ではなく、消費者の視点に立って行政や企業が対応していたら、惨禍はこれほどまでには広がらなかっただろう。人口減少社会に突入する日本で、税金を使う人ではなく、税金を払う人の視点に立てば、関西地域に神戸空港や関西国際空港二期工事は本当に必要だろうか。社会をとらえる視点を変えて日本をデザインし直せば、「もうひとつの日本」が見えてくる
9/26「海行かば」
「村尾さんは『海行かば』を知ってる?」。「軍歌ですか」と私が答えると、「『海行かば』は、私にとって軍歌じゃない。反戦の歌に聞こえてしまう。あの歌を聞くと、体が締めつけられて不思議な感情に襲われる。戦争を知らないあなたには分からないと思うけど」。十五夜の晩、鎌倉での月見の会でお会いした年配のSさんが語る。続けて、こんな体験も。「空襲警報で身を伏せていると、列車が近づくような振動音とともにB29が迫ってくる。そして数メートル先に焼夷弾が落下。当時軍国少年だった私だけど、B29が去っていくときのあの安堵感は今でも忘れられない」。きれいな月とともに、『海行かば』のメロディーが妙に心に残った夜だった。
戦争を知らない世代が今戦争を語り始めている。若いスマートな国会議員が、行け行けどんどん、のノリでイラク戦争を語り、憲法9条を語るとき、その言葉に首をかしげる年配者は少なくない。Sさんは言う。「戦争を頭で考えたらいけない。体で感じないとあの恐ろしさは分からない」
次の総選挙では憲法9条が争点の一つになるだろう。戦争について語るなら、戦争を体験した人々の声をじっくり聞こう。空襲で逃げまどう人々の叫び。夫や息子を戦地に送る家族の思い。そして、終戦の日に思ったこと、感じたこと。戦争はバーチャルなゲームではないのだから。
9/19「意識の変化」
「先生はたばこ吸いますか?」。学生とのコンパの席で、隣に座った茶髪の男子学生から尋ねられた。「吸わないよ」と私。学生は安心したように「あのニオイが服に付くと嫌なんです。クリーニング代も大変で」と言ってビールを飲み干した。
思えば、たばこの煙に対する私たちの意識はずいぶん変わった。私が学生のころ、会議室でも、レストランでも、列車や飛行機の中でも紫煙は立ち昇っていたし、誰もそれほど気に留めなかった。ところが今は、どこもかしこも禁煙。人間の意識はなかなか変わらないと思う反面、変わるときにはコロッと変わるとも思ってしまう。人は、街のネオンの灯りより夜の水辺の蛍に魅せられるようになった。人は、物の豊かさより心の豊かさを求めるようになった。
そして、政治や行政なんていう難しいことは、お上(かみ)に任せておけばいい、という意識も変わり始めた。住民投票で民意を聞け、と言う人が増えている。世の中に貢献しようとボランティアに取り組む人が増えている。
ところで裁判の世界では、もうすぐ市民が裁判官の席に座って人を裁く「裁判員制度」が導入される。「私には人を裁く能力も資格もない」、「仕事が忙しくて暇がない」など、まだまだ市民の意識は消極的だ。だが、きっとこんな日が来る。「先生、法律のことしか分からないプロの裁判官だけで、人を裁くのは問題ですよ」
9/12「敗北には闘魂」
「血も涙もない、江戸から来た悪代官」「三年間しか暮らしたことのない人間には地元をまかせられない」「1400万円の退職金で選挙活動ができると思っているのか」私に浴びせられた非難や中傷の数々。中にはうまい言い方をすると感心したのもあったけど。 実を言うと、私は2003年の三重県知事選に立候補したことがある。三重県庁には以前、大蔵省から出向していた。政党の支援を受けず、退職金だけで借金はしないという決意のもと戦った。 選挙は非日常の世界だった。希望もあれば、落胆もあった。落ち込んだときは、映画「ロッキー」のテーマ音楽を聴いていた。選挙に負け、敗者になった私。役人から浪人へと境遇は一変した。人間、負けたときが肝心だ。英語のスポーツマンには「良き敗者」という意味もあるらしい。試合後、勝者をたたえる敗者の姿を思い出した。 支援してくれた人には本当に申し訳ないことをした。草の根の選挙スタイルを貫く私に、「お前はそれで気が済むかもしれないが、必死で応援しているおれたちのことを考えているのか!」との批判は重かった。 失意のとき、思い出したのは「戦争には決断。敗北には闘魂。勝利には寛仁。平和には善意」。第二次大戦を戦った英首相チャーチルの言葉だ。 今回の総選挙でも数多くの落選者が出た。落選者の皆さんの悔しい気持ちはよく分かる。敗北には闘魂である。
9/5「餃子一斉改革」
「何?餃子一斉改革って」。行財政改革と聞いて、餃子の話と受け取る主婦がいた。考えてみれば無理もない。日々の暮らしに財政だとか行政なんて言葉は使わない。選挙が近づき、「マニフェスト」なんて言われると、ますます分からなくなる。要するに、ある政党が政権を取ったら、皆さんのためにこんなサービスをお約束しますよ、といった約束リストのことだ。
これから大切になるのは、立候補者の能力や人柄よりも、政党がつくる公約の中身だ。それにしてはどんな契約もギブ・アンド・テークなのに、政党の公約は「してあげます」の話ばかり。「お代はいくら」とはどこにも書いてない。なんかインチキくさいと思うのは私だけだろうか。
ところで今回の選挙には、いろんな人が登場して舞台を盛り上げている。それはそれで面白いのだが、結局これもマニフェスト選挙の当然の帰結かもしれない。だって、これからの国会議員は所属する政党がつくった公約にしたがって動けばよいだけ。世襲議員、有名人、誰でもできる。名実ともに国民の代理人になる訳だ。ちょっと寂しい気もするが・・。